ヴィラコチャ
Viracocha
インカに伝わる汎アンデス的な最高神にして創造神。「ウィラ・コチャ(Wira Qocha)」とも呼ばれる。世界と人類、そして森羅万象の創造者であり、どこにでも姿をあらわす不可避の神であるが、観念的には遠い存在であり、内在的だが根源的な創造者である。ただ、しばしば長い髭を生やした老人の姿や、稲妻の矢を持ち太陽の王冠を被り雨の涙を流す姿などで表された。クスコにあるヴィラコチャを祀った神殿にあるその黄金製の神像は、成人男子のおよそ4分の3の大きさだった。この神像を最初に目にしたスペイン人は、「ヴィラコチャは白い肌をしており、髭を生やし、長いチュニックを着けていた」と記録している。
インカ人にとってヴィラコチャは俗世からかけ離れた遠い存在であり、インカ人にとっては名のない存在だった。しかし、創世神話のなかで彼は様々な姿をとってあらわれ、その役割にふさわしい修飾語で呼ばれていた。たとえば、「イリャ(光)」、「ティクシ(物事の始まり)」、「ヴィラコチャ・パチャヤチャチック」ないし「ウィラコチャ・パカヤカシック」(偉大な王、世界の指導者)、タラパカなどである。スペイン人の年代記者達は、この一見して混乱している状態におそらく当惑したのだろう。年代記者達は彼に「ヴィラコチャ」という総称を与えた。本来、「ヴィラコチャ」という言葉自体も、「創造の湖」、「海の油」、「海の泡」などと解釈すべきものであり、彼という神に捧げられる祈祷文に使われる呼びかけの一つに過ぎない。
伝承によればヴィラコチャは最初暗闇の世界をつくり、石で拵えた人々をそこに住ませた(一説には巨人だったとされる)。しかし彼らはヴィラコチャに従わなかったので洪水で破壊されあるいは石に戻された。ティアワナコやプ殻の巨大石像はこの石に戻された人々であるとされる。石で拵えられた人々は一組の男女だけが生き残り、かれらは神々の住むティアワナコへと移されたとされる。次にヴィラコチャは粘土から現在の人々や動物を創った。住民と国を区別するためにヴィラコチャは彼らに異なる服を着せ、異なる習慣や言語、歌などの文化を与えた。ヴィラコチャはこれらの人間に命を吹き込むと、地下に下りてばらばらになり、洞窟や湖、丘からまた地上に出てくるように命じた。こうして人々が出てきたとされる湖などは聖地とされ、そこに神々を祀る神殿が建てられた。だが世界はまだ暗かったので、ヴィラコチャは太陽と月と星に対して、ティティカカ湖の島から天空に登るように命じた。 こうしてヴィラコチャは創造を終えたが、その後も人々に教えや文化を広めるためにティティカカ盆地から旅に出た。彼は乞食の姿になって旅をしたが、出会った人間の多くは彼の身なりを見て冷たくしたり罵ったりした。しかし彼はそのたびに彼らに人間のあり方を教え、奇跡を起こして見せた。
インカにおけるヴィラコチャ(コニラヤ・ヴィラコチャ)は中央アンデスの多くのプレ・インカ文化における神体系に登場する、古代の創造神に対する究極的な称号となっていた。これはインカ人が征服した文化から取り入れられたものであり、特徴的な涙を流す神像の目は、明らかにティアワナコの通称「泣き神」と呼ばれている神像の特徴を取り入れている。後期インカになるとヴィラコチャは次第に名声を失い始めるが、それでも彼が無視されるようなことはなかった。新皇帝の即位式などの重要な儀式の際には、ヴィラコチャには人間の生贄が捧げられた。カパコチャと呼ばれる子供の生贄は特にヴィラコチャに捧げられ、この生贄の前で神官はヴィラコチャに特別な祈祷を捧げた。
後期インカでは世界は5回創造されたと考えられた。最初の時代はヴィラコチャの他の神々によって支配され、死というものが全く存在してなかった。台の時代はヴィラコチャによって創造された巨人の時代で、彼らはヴィラコチャの機嫌を損ねたために洪水によって滅ぼされた。第3の時代はヴィラコチャによって作られた最初の人類が住んでいたが、彼らの生活には文明はなかった。第4の時代はアウカ・ルナ(戦士たち)の時代でモチェ文化のような初期文明の創設者達の時代を指す。第5の時代はインカ人自身の時代であり、彼らは征服によって文明を広範囲に広めた。ヴィラコチャは現在のエクアドルにあるマンタに到着すると、そこから西に向かい、海をまるで地上を歩くように歩いて太平洋を渡っていった(いかだに乗っていった、自分のケープに乗っていったなどの説もある)。第5の時代はスペイン人の到来とインカ帝国の滅亡によって終わるが、スペイン人が到来したとき、彼らはヴィラコチャの使者たちが帰還したとして歓迎され、「ヴィラコチャたち(viracochas)」と呼ばれた。
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