アステカにおける戦いの神。名前は「南のハチドリ」ないし「左の青いハチドリ(メソアメリカ人たちは西を上方、南は左と認識していた)」といった意味。創造神オメシワトル(Omecíhuatl)とオメテクートリ(Ometecuhtli)から生まれ、ケツァルコアトル(Quetzalcoatl)、テスカトリポカ(Tezcatlipoca)、シペ・トテックを象徴的な兄弟とする。しかし、別の伝承ではコアトリクエ(Coatlicue)の末の息子だともされている。コアトリクエ(Coatlicue)はミシュコアトル(Mixcóatl)の妻であったが、ある日彼女のもとに落ちてきた羽のボールの魔力で「一人で」ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)を妊娠してしまった。コアトリクエ(Coatlicue)の息子であったセンツォンウィツナワック(Centzonhuitznahuac)とセンツォンミミスコア(Centzonmimixcoa)は、そんな母親を恥に思い母親殺しを企てた。それに気づいていたウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)は完全武装で母親の胎内から生まれ出でて、母親を救うためにすぐに二人を殺そうとした。その際、母親に陰謀があることを警告しようとしていた姉のコヨルシャウキ(Coyolxauhqui)の首を切り落としてしまった。ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)がコヨルシャウキ(Coyolxauhqui)の頭を天に投げるとそれは月になった。センツォンウィツナワック(Centzonhuitznahuac)とセンツォンミミスコア(Centzonmimixcoa)はウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)によって罰として空に撒き散らされ、それぞれ南と北の星座になったという。 メキシコ盆地に移住してきたアステカ最後の部族で、帝国を築いたメシーカ・アステカ人(太陽の民)の部族神であり、その首都テノチティトランの守護神でもある。戦いの神であると同時に太陽の神で、太陽として毎日おもむく天空の旅では、日の出から正午まで戦死した戦士の魂に付き添われた(アステカ人にとって戦死は最も名誉な死に方だった)。こうしてウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)は正午から日没まで、西に降りていくシワテテオ(Cihuateteo, Ciuateteo)に付き添われ、正午以降の太陽落ちていくワシに譬えられた。夜の間、太陽は地下の死者の世界を照らしていた。 ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)は生命の授与者トラロック(Tlaloc)と同様の立場を与えられ、これら2神を祀る双体神殿は、テノチティトランにある大神殿のピラミッド基壇の上に建てられた。トラロック(Tlaloc)神殿が水を象徴する明るい青と白で塗られていたのに対し、ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)の神殿は戦いを象徴する赤色に塗られていた。 またウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)は北西部の砂漠地帯にあるとされている伝説のアストランの洞窟からメソアメリカ中央部までメシーカ人を導いたという。 アステカの18ある365日暦の暦月において、10、13、16番目の月には、それぞれ「ミカイルウィトントリ」、「パチトントリ」、「パンケツァリストリ」と呼ばれる、ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)とその他の神を祀る祭儀があった。また暦上では「セ・テクパトル(1の火打石)」という名があり、その日はウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)ないしカマシュトリ(Camaxtli)の祭日であった。 ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli) 1901 「テリェリアーノ・レメンシス絵文書(Codex Telleriano-Remensis)」より ロストック大学図書館(Universitätsbibliothek Rostock)蔵 Copyright: public domain ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli) 1898 「ボルギア絵文書(Codex Borgia)」より ロストック大学図書館(Universitätsbibliothek Rostock)蔵 Copyright: public domain
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