撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

「日本書紀」に言及される女神で、天照大御神の一側面である荒御魂(あらみたま=荒ぶる勇猛な魂)に対する神名。単に「天佐迦留向津姫命」、「天疎向津姫命」、「天退向津姫命」などと記して「あまさかるむかつひめ」と呼ばれることもある。名前の「撞賢木(つきさかき)」は「斎榊(いつきさかき)」のことで、「厳(いつ、いづ)」の枕詞で神を祭る榊を忌み清めるもの、「厳(いつ、いづ)」は清浄であるさま、「天疎向」は国土から天を仰ぎ見奉ることを意味すると考えられる。 仲哀天皇が熊襲を討つために筑紫に行幸したとき、随伴した神功皇后が神懸かりし、「先に新羅を討つべし」との託宣があった。しかし仲哀天皇はこれを信じず、熊襲を攻めた結果敗走し、筑紫で没した。このため神功皇后は改めて斎宮を設け審神者を立て、自らが神主となり神に神名を尋ねた。七日七夜経ってから、「私は神風の伊勢国、度逢縣(わたらいのあがた)の拆鈴(さくすず)の五十鈴宮にいる神。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である」との答えがあった。「五十鈴宮」とは伊勢神宮の内宮(皇大神宮)のことで、つまり天照大御神と同神ということになる。神功皇后はこの神を祀り無事に熊襲を討ち、更に新羅も征伐した。その帰りに紀伊から難波へ船を進めようとしたが船が思うように進まなかった。神功皇后が神にお伺いを立てると、天照大御神が応え「我が荒魂は皇居の近くに置くべきでない。廣田国におくとよい」との神託があった。このため葉山媛が廣田にこの神を祀ったという。 この時の神社が兵庫県西宮市にある「廣田神社(ひろたじんじゃ)」であり、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を「天照大御神之荒御魂(あまてらすおおかみのあらみたま)」として祀る。またおなじく伊勢神宮内宮(皇大神宮)の境内別宮である「荒祭宮(あらまつりのみや)」においても同神を「天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)」として祀る。

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